ざっくり言うと
毎日きお太の為を思い、一生懸命教育について調べ、ヘトヘトになりながらも頑張っているミカ子です。さて、では問題です。現代の小学校教育を創った人がいるのですが、それは誰でしょう?
ということで、今回は「ペスタロッチ」について調べてみました。もう調べたくないくらい調べました。
ペスタロッチってどんな人?

ペスタロッチっていったいどんな人物?学校で少し習ったような気もするけど思い出せない。。そんな人も多いのではないのでしょうか?
私も初めて見たとき、いやいや、誰だこれ?!って思いました。調べてみましたが難しい!苦戦しました。とりあえず、今回も皆で一緒に学んでしまいましょう。

ってことで、ペスタロッチとはいったい誰?何をした人なの?って思うでしょ?今回は、このペスタロッチについて私がちゃーんと調べたからよく聞きなさい!ちょっと難しい話になっちゃうけど、出来るだけわかりやすく説明するわ。

はい、はい。で、ペスタロッチってどんな人なの?
ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(1746年~1827年)は、スイスの教育学者・教育家で、シュタンツ、イヴェルドン孤児院の学長を務めた人です。
ペスタロッチは「民衆教育の父」と言われており、簡単に伝えると「現代の小学校教育を創った人」です。
ペスタロッチは教育について色々な著書を残し、貧困な家庭にも教育が出来るような環境を作りたいと考え、初の貧民学校を設立しました。
教育学者として有名なペスタロッチですが、なぜこのように有名になったのでしょうか?
また、ペスタロッチがなぜ学校を設立しようとしたのか、 そして自分が作りたいと望んだ学校とはどのような学校だったのでしょうか?
ペスタロッチについて、まずは歴史から見てみましょう。
ペスタロッチの生い立ちについて

子供の頃
ペスタロッチは、スイスのチューリヒで誕生しました。
ペスタロッチの父親は優秀な外科医でしたが、5歳の頃に亡くなってしまいます。ペスタロッチには兄弟がいました。兄と妹がいましたが、父親が亡くなってしまったため、年金生活をしてギリギリの生活を送っていました。
そんなペスタロッチですが、チューリヒの近くにあるヘンク村で牧師をしている祖父がおり、よく遊びに行っていました。
ですが、ペスタロッチは、そこで見たヘンク村とチューリヒでは教育環境が違っている姿に心を痛めます。
それは、チューリヒの町の子供たちは裕福で、みんな学校へ行くのが当たり前なことに対し、ヘンク村の子供たちは貧しい家庭が多く、みんなが学校へ行くということが難しい状態だったからです。
その為に、学校教育を受けられないまま、子供たちは大人になり働いていました。そして、学校教育が受けられないままでは貧しい環境から抜け出せないのが現状でした。
この姿をみて、ペスタロッチはまだ子供なのに「この人たちを救いたい」と思うようになります。このようなことがあり、ペスタロッチは教育について興味を持ち始めたきっかけとなりました。

ペスタロッチは自分も大変な経験をしてきたから、教育に関して興味を持ったんですね。

そう、彼はこの「貧困な家庭にも教育が出来る環境を作りたい」という気持ちが生まれて動き出していくのよ。
大学時代

ペスタロッチは、現在でいうチューリッヒ大学へと進学します。始めは牧師になり、人々を救いたいと考えていましたが、弁護士になってもっと多くの人々を救いたいと考えるようになります。
その為、進路も神学から法学へと変わっていきました。その時に出会ったのがルソーの思想です。

ルソーってどんな人だったっけ?

ルソーはフランスの哲学者でフランス革命で大きく影響を与えた人物よ。
ペスタロッチはルソーの「自然に帰れ」という思想に非常に共感を持ちます。

この「自然に帰れ」という言葉ですが、一体どのような意味なのでしょうか?
確かに。少しわかりにくいですよね。
ルソーは、お金や地位などをめぐる争いや不平等なことが起きているのは現代の社会に問題があると考えました。人間は本来このような欲望などは持っていないのに、社会の問題で様々な感情が生まれてしまったと考えていたのです。
その為に、ルソーは「本来のあるべき姿の人間に戻らなければならない」と考えました。本来あるべき姿とは「自然状態」のことを言っています。
ですが、本来の姿に完全に戻すのではなく、今現在の教育のなかで人間を見つめ直し、本来のあるべき姿になることが大切だということです。
これが「自然に帰れ」という意味です。
ルソーの影響を受けたペスタロッチは、社会をよくしたいと考えて、愛国者団という団体に入ります。
ですが、ペスタロッチは政府の人たちから要注意人物として見られてしまいます。それは一体なぜなのでしょうか。
それは、ペスタロッチは「社会主義」を進めることが目標でしたが、政府側は「民主主義」を求めていたからです。
このことが原因で、ペスタロッチは政治家になることを断念します。

ルソーの教育思想はペスタロッチも魅了され、受け継がれていったのよ!
農業経営をしながら教育者となり、貧民学校を設立

大学を退学したペスタロッチは「エミール」(著者:ルソー)を読み、その影響を受け、農業経営と教育者になることを目指しました。
そして、「ノイホーフ」という農園を作ります。その時に出会ったのが、農村にいる貧しい子供たちです。
その子供たちを見て、ペスタロッチは皆が平等に自由に学べる環境にしたいと思うよになり、そして、初めての「貧民学校」を設立しました。
ですが、農業経営もうまくいかず、貧民学校も閉鎖に追い込まれてしまったのです。
その後、ペスタロッチは著作業と教育業に専念することになります。
フランス革命の影響で孤児院を設立

ペスタロッチが著作業をはじめている間、フランスでは「フランス革命」が起きていました。
このフランス革命が起きた原因は何だったのでしょうか。当時、フランスではルイ15世時代から負債が続いていました。イギリスとアメリカが戦争を始めた為、フランスはアメリカに巨額な軍事支援をしていたのです。
この軍資金がかかっている中、更にフランスでは小麦の不作、その為にパンの価格が高騰していたのです。市民はこのことに怒り、革命を起こしました。

これはマリーアントワネットの「パンがなければケーキを食べればいいじゃない」が有名よね。

このお嬢様気質、どこかで見たことがある気が。。

私だって言いたいの?そんなこと言うあんたにはパンもケーキもあげないんだから!
ですが、ペスタロッチとフランス革命がなぜ関係あるのだろうと思いますよね。
それは、ペスタロッチのいたスイスもフランス軍に攻撃をされてしまったからです。
その結果、多数の死傷者が出てしまい、たくさんの孤児が増えてしまったのです。この孤児の子たちに、ペスタロッチは無償で奉仕したいと考え「孤児院」を設立します。
ですが、この孤児達は孤児院が出来るまで大変苦労した生活を送っていました。では、どのような生活をしていたのでしょうか?
それは悲しい話になりますが、子供たちは乞食(こじき)をしたり、泥棒をしたりして何とか生きてきていたのです。そうでもしなければ生きていくことができなかったのです。
このようなことを経験してきた子供たちは、大人を信用できない上、愛情も失われていました。心が失われてしまっていたのです。それでも、ペスタロッチは日々、愛情をかけ子供たちを見守っていきました。

このような環境になっていたら子供の傷は本当に深く、癒していくのは大変なことですよね。

それでもペスタロッチの愛が子供の心を癒し、子供の支えになったのよ。これは本当にすごいことだと思うわ。
そうすることで子供たちは徐々に心を開いていき、積極的に学習にも取り組んでいくようになったのです。
ですが、残念ながらこの孤児院も半年ほどで閉鎖されてしまいます。

こんなに子供たちのために愛情をかけて育ててきたのに、何故閉鎖されてしまったのでしょうか?
ペスタロッチは「社会改革運動」に協力していましたが、当時フランスでは「民主主義」を進めていました。
このことが原因で、ペスタロッチに対し、反対する人たちがいました。その為、孤児院もわずか半年で閉鎖されてしまいます。(シュタンツの悲劇)

フランス革命によって、関係のない子供達にまで影響が出てしまったのよ。
そして、この孤児院はフランスの軍隊の病院にされることになりました。
このあまりにショックな出来事に、ペスタロッチは体調を崩してしまいます。
ですが、この後もペスタロッチは「イヴェルドン学園」を開きました。この学校は教員養成のための学校です。
このほかにも「女子学校」や「聾唖学校」を設立し、有名になっていきました。著作業をしながら、学校を設立するなど、教育界に大きな影響を与えたのです。

たしか、フレーベルもペスタロッチの影響を受けていた一人で、イヴェルドン学園で学んだ人でしたね。

このペスタロッチがいたからこそ今の教育があるのよ。色々と苦労も多かった人生だったみたいだけど、子供たちのことを思って、教育について研究してきたペスタロッチは、とても優しい人柄だったのでしょうね。